歴代家元
家元紹介と花押
流祖 速水宗達
【流祖 宗達】(そうたつ)
号:養寿院、希棟(きとう)、和道、束々完(そくそくかん)
元文四年(1739)生まれ
文化六年(1809)十月二十七日歿
享年七十一歳
代々御典医を営む家で父速水彦達(げんたつ)の長男に生まれる。幼名は亀治郎。家業の医学を好まず、儒学や和学を好む。茶道は裏千家又玄斎一燈に入門し、若輩にして奥義を極める。聖護院宮、岡山藩主等の茶道指南を努め、後速水流を創設。
二代 速水宗曄
【二代 宗曄】(そうよう)
号:守拙(しゅせつ)、宜岷(ぎみん)
明和八年(1771)生まれ
文政八年(1825)十一月四日歿
享年五十五歳
流祖の次男として生まれる(?)。父の偉業を広く世に普及するため、『茶旨畧(ちゃしりゃく)』、『喫茶指掌編(きっさししょうへん)』など、父の厖大な遺稿を校正して出版する。速水流の基礎を作り上げながら、流祖に引き続き聖護院宮(しょうごいんのみや)の茶道指南を努め『守拙』の号を賜る。
三代 速水宗筧
【三代 宗筧】(そうけん)
号:守三軒(しゅさんけん)、蠖居(かっきょ)、因是斎(いんぜさい)、弘道(こうどう)、守真(しゅしん)
文化十年(1813)生まれ
明治九年(1876)十月十四日歿
享年六十四歳
宗曄宗匠の二男として生まれ、僅か十三歳で家元を継ぐ。聖護院宮から『守三軒』の号を賜る。文久二年(1862)旧滌源居(てきげんきょ)の地に京都守護職が設置されるに伴い、滌源居を現在の地に移す。父に代わり『茶則』等を発行するなど、流儀の確立と地方への普及を行なう。
四代 速水宗汲
【四代 宗汲】(そうきゅう)
号:貯雲斎(ちょうんさい)、修敬(しゅうけい)、三子(さんし)
天保十一年(1840)生まれ
大正十三年(1924)五月十日歿
享年八十五歳
宗筧宗匠の三男して生まれる。近畿や山陽地方、とくに尾道に流儀の普及を努力され速水流を定着させる。聖護院宮や一条家の茶道指南を努め、聖護院宮より『貯雲斎』の号を賜る。また幼少より盆石に凝り、後年『庭の宗汲』と称せられる。多く遺作が京滋(けいじ)、山陽地方に残っており、有名な「光悦垣(こうえつがき)」も宗汲宗匠の好みである。
五代 速水宗青
【五代 宗青】(そうせい)
号:滌源居(てきげんきょ)
名:お柳(りゅう)
明治二十年(1887)生まれ
昭和二十年(1945)七月二十二日歿
享年五十九歳
宗汲宗匠の長女として生まれる。父亡き後、社中の有力者である大徳寺の伝衣(でんね)和尚の支えを受け家元を継承するも、当時は女性が家元を継ぐには大変な苦労があり病気を患い逝去される。
六代 速水宗仁
【六代 宗仁】(そうじん)
号:滌源居(てきげんきょ)
名:通文(みちふみ)
明治三十二年(1899)生まれ
昭和五十九年(1984)十二月二十四日歿
享年八十六歳
昭和十三年、宗汲宗匠の次女(名は青[せい])の婿として迎えられ、昭和二十三年に家元を継承する。早稲田大学で宗教と哲学に通じ、日本学士会よりアカデミー賞を受賞する。戦前、戦後の混乱期を乗り越え、新しい茶風を確立。昭和二十七年の北野神社の一千五十年祭、平安神宮、岡山後楽園、黒住教(くろずみきょう)での献茶の奉仕をされる。
七代 速水任然
【七代 任然】(にんねん)
号:滌源居(てきげんきょ)、宗樂(そうがく)
名:通成(みちなり)
昭和十六年(1941)十二月三日生まれ
昭和六十二年三月十五日、聖護院門跡にて家元襲名を行なう。戦後途絶えていた聖護院門跡との関係を回復し毎年献茶の奉仕をされる。その他、平安神宮・岡山後楽園・黒住教・最上稲荷教(さいじょういなりきょう)での献茶奉仕、同門会『滌源会(てきげんかい)』を全国組織として編成、研修会の創設、家元の建物や露地の修理等、流儀の発展・育成に努力されてた。平成三十一年三月十七日、聖護院門跡宮城泰年猊下より『任然』の号を賜る。