『千家の茶の展がり』~宗全 不白 宗達~ 婦人画報社平成7/11/20出版より

速水宗達の出自  速水宗楽

 速水家の遠祖は、江戸の初めまで丹波氏を名乗っており、その姓が示すごとく、医を業とする家系である。したがって系図のそちこちに、典薬頭(てんやくのかみ)・典薬助などといった官職名が見出せる。それが、丹波光慶という人物が出るに及んで、速水の姓に改まった。理由は、光慶が豊臣秀頼の北の方、すなわち二代将軍秀忠の女千姫の疾病を速やかに快癒させ、恩賞にあずかるとともに、速水姓を賜ったからである。

 こののち、光慶には医家として再度の名誉を受ける機会が訪れる。それは将軍秀忠の意向による、千姫の侍医にという要請である。しかし、光慶は老病を口実に固辞し、近江に去ったのである。系図に、「然厭往江府」と記すことから、おそらく、かつて豊臣家の恩顧を破った身でありながら、世が改まったゆえといって、徳川家に従い仕えるなどということを潔しとしなかったから、と思われる。

 光慶には成人した男子が二人いたが、兄は速水氏を、弟は丹波氏を継ぐ。以後、代々の速水氏も、系図には一代ごとに「以医為業」と記しこそされないが、腸姓・継嗣のいきさつから医を業にしたことはいうまでもない。

 かくて速水と改まって約一世紀、医の業はことごとく継襲されて速水玄逹に及ぶ。その玄逹が長逝したのは宝暦六年(一七五六)、嗣子宗達(一七三九~一八〇九)は十八歳にして成人していた。しかし宗達は、医を継ぐことはしない。一説に、幼名亀次郎と伝えられることから、次男であるゆえその必要がなかったとの見解がある。この点に関しては、宗達の孫、宗筧(そうけん)(速水流三世 一八一三~七六)が「祖先医業之節之事者、不取用。祖父宗達茶道開業已来、不仕候事」と記しているから、少なくとも宗達は医を継いで然るべき立場に置かれていたが、それをしりぞけて茶の道を志した、と看做せる。医の速水家にとって、穏やかならざる出来事であったにちがいないが、同時に、少年宗達の茶の湯に対する並々ならぬ志向のほどが窺えよう。こうして、医の名家としての速水家は、玄逹の代にて閉じられた。

一燈宗室と宗達

 宗達が育った家庭環境を考えれば、年少より医に馴染み、教養あるいは学問として漢学を学び(宗達の通った京都・堀川の古義堂は、伊藤仁斎の孫東所の代で、宗達の東所宛書翰が現存する)、また文化的な嗜みとして、とみに盛んになっていた茶の湯に心を傾けたことは、ごく自然の成り行きであるといってよい。その宗達が、師と決めて茶の湯の門を叩いたのは当代の達人又玄斎一燈宗室(一七一九~七一)である。この時、父玄逹はおそらくまだ健在で、宗達は十八に満たぬ少年であったと思われる。それは、次に紹介する宗達二十一歳における師とのエピソードの内容が、修業三年で起こり得るとは考えられないからである。宗達にとって父の死は、医家継承の雑音から解放され、自己の茶を目指す環境を安全に得た、ということではないか。それはともかく、宗達の点茶論の一書にて語られた若き宗達と円熟の一燈との話に、これから入りたい。なお、本文は内容的に区切りのよいところで切りながら紹介し、少々コメントを挿しはさませていただく(『鮎茶辯正』)。
・・・又問ふ、「左手前の三種をかへすを見るに、右手前のごとく、打ちかへしてかへす事なるに、当家は又初めのごとくかへさるゝは、如何。」答へて曰く、「此の義は、先年、又玄斎盛んなる頃、予(宗達)は未だ廿一才の春にて有りしが、ひそかに両人相ひ談じて、いづれにもせよ、左手前にては、主の出したる通りかへしたるが適当なるべきいはれをせめて、能く定む。又、舟の花入を左手前に釣るに、さま/\あらそいあればとて、『舟の艗(舳)を左へなし、右手前にては艗を右へながすがよし』と、同時に定めおかれし。」

 話は問答の形で進めらえている。問う者は千家と速水家双方の点前を知る者との設定で、答えるのは宗達である。なお、話の冒頭、左点前の三種の返し方は、当時の千家の返し方である。また「当家」とは速水家を指す。

 さて、左点前の三種の返し方が、千家と速水家とでは異なる点を質問して話は始まる。打返しか、元のまま返すかの選択であるが返答としては、かつて一燈と宗達とが筋の通った理由付けが可能なのはどちらか、ということを話し合い、「そのまま返すのが適当」という結論を得たという内容である。この話から。往時は少なくとも理念を表現するてだてとして、点前が充分煮詰められてはいなかったという事実がわかる。また、一燈が宗達と相談し、互いに意見を述べ合って点前を決めたという事実は、宗達の力量を高く評価し、宗達が単に学ぶという段階を超え、茶に対する造詣も深まって、すでに自身の茶を抱懐しているとみていたことを示す。さらに一燈についていえば、たとえ宗達が弟子であっても上下関係にとらわれず、その長所・能力を正しく評価し処遇するすぐれた指導者であり、また柔軟でこだわりのない性格の人物をの印象を強く抱かせる。

 ところで、右の話のあった季節は春、つづいて同年秋八月十四日、今日庵にて左点前で且座が行われた。一燈の指導のもと東(主)は啐啄斎宗左、半東は不見斎玄室、上客が宗達、二・三客は一燈門の町衆というメンバーである。その折、八畳広間には釣舟の花入がなぜか師弟合意とは逆に舳を右にして掛けられている。やがて三種の返しとなり、上客の宗達が相談のとおり主の出したとおりに返し、やがて稽古が終わる。そこで、

玄室曰く、「今の三種の返し方、如何」といふ。又玄斎曰く、「甚だ悪しきなり。やはり打ち返すに致すべし」と云う故に、予(宗達)がいふ、「夫(それ)は甚だいぶかし。已に先達って御互ひに申し合はせ、其の子細をせめ置きし也。右手前にて、主、茶入を上に付けて出すを、客、下に付けてかへすは非礼の様なれども、主の取り勝手宜しきなれバ、非礼にあらず。左手前にては、主、上へ付けて出す茶入なれば、客、又上へ付けて返す。幸ひ、主の取り勝手もよし。左手前は右手前の半がへしの意にも能く叶ふが故に、かた/\予が返し方理(ことわり)にて、其の上、舟の花入の事も先逹て同時に定め置かれし事なるに、今に限りてそむけしも善しとならば、日々其の意(こころ)狂ふというものにて、人によつて加担なされけるは、甚だ不審に存ずる」
という会話が交わされるが、宗達の講義は理に適ったもので、たとえ師であろうと通すべき筋は通す強い性格が判然としている。これに対し一燈は、速やかに席を立ち勝手口に去る。一向戻らない師を、残るものたちは待つが時が経過。宗達は年輩の二・三客に、若さゆえに言葉が過ぎること、師に詫びを入れに行くよう促される。一方、啐啄斎は宗達に道理があると認めて励ます。宗達はひたすら、師が戻られたなら申し上げようもあるだろうと落ち着いている。

 夕暮れになる。又玄斎が戻ってきて、

「扨(さて)々、久しくいづれも御待ちあるべし。今日は待宵なれば田楽を致せ、夫を手伝ひ居りし故に、延引に及ぶ。いづれも是へ御出であるべし。別して宗達、先ず盃をさし申すべし」と予に初めて盃を給ふ。「扨々、大慶。さあらば、先刻の争ひ、拙者が勝ちにて候ふ」と申しつれば、又玄斎も手を打ち、いづれも大笑ひとなりてきげんよし。夜半に至りて帰りし也。

 一燈は宗達の抗議に正当性を認めたのみならず、将来、茶の本旨に沿った流儀を緻密に創りあげていく天賦の才を見透し、将来を託す気持ちでその門出を祝したのではなかろうか。ともあれ、大器量人一燈は、剛気の宗達が一燈の膝下を離れ、独歩すべき時が来たことを感じたことは確かである。

宗達の茶

 宗達は夥しい著書を残しており、茶に対する考えはそれらによって充分表されているはずである。しかしあいにくなことに、刊行を見たのは数冊というわずかなものである。その中で、『茶則』『茶旨略』などは宗達の茶道観や茶道理念を知るうえできわめて有効といえよう。とはいうものの、宗達の知識・学問は仏教・儒教・道家など幅広く、それらの発想や語を駆使しての論述は、決して易しいとはいえない。それゆえ、ここではできるだけ噛み砕いて、茶の湯に対する宗達の考えを伝えたい。  周知のように、侘び茶には「わび・さび」という美意識を表す語と、「和敬清寂」という理念を表す熟語がある。後者に関しては、定義をする人により微妙な差を生じはするが、ほぼ仏教的な、それも特に禅的な心境と関連づけて語られるのが一般である。これに対し宗達は、「敬和清寂」を理念とする。これは単に語の順が入れ替わったのみではない。敬以為質、と説明しているように、「敬」を理念の根本に位置させることが茶の湯を成り立たせる本(もと)であるとする。「敬」は他者を敬い、かつ自身の内面が謙虚で慎み深い状態にあること、と規定し、この心境的様態があってこそ他者との親しみ深い交わり(「和」)が行えるとする。宗達がこの二文字に託したものは、心が動いて実践に至ること、茶の湯に即していえば、茶会を志して催し、人と交歓することに対する自然体の心構えである。

 また「清」は、世俗の塵にも濁らない無欲清浄の澄んだ心境をいい、「寂」も安らかな憩いの境地にあるという意である。この二語は、ともに他に煩わされないあるがまま、自然のままの心をいったもので「無為」にほとんど等しい。再び茶の湯に即していえば、現実生活の営為の合い間、閑あって心澄み安らかな折、自然に心を委ねたまま、自ずと茶を以て人と交歓しようとの心が今にも生じようとしている・・・、といったところであろう。

 さて、次に宗達の茶の湯というものの位置付け、別の視点かた見た茶道観について説明してく。宗達は天は人智の及ばない人を超えた世界と認識するが、それに対するものとし地、すなわち人間世界を考える。これは中国古代思想に発想を得たといえるが、その人間世界のものとして茶の湯はあり、したがって茶の湯は人と人との精神的な交わりを中心に据えて楽しさを味わうものであり、それを一層満喫するためのものとして茶式がある、と考える。ここで茶式とは、人との交わりに際しての礼、すなわち人は各々皆、身分・立場などを異にするゆえ、それぞれに「敬」の心を以って節度をわきまえて対応するその法、としている。これを正しく行うことによって、和楽・礼楽は実現し、交歓を尽くすことができると宗達は考える。この考えには、儒教の影響が見られる。しかし、彼は”茶式は器物のようなもので、どんな形のものでも盛ることができる。禅も神道も儒教も何でも茶を楽しむ規式に利用できれば結構”といって、本来融通無碍だという。千家のように茶禅一味などと禅との結びつきを色濃く主張する茶を間接的ながら批判しており、茶を禅の枠から解き放つことによって茶をより豊かに楽しむことができるとの考えをもっていた。他に宗達の考えとして注目すべきは、茶の湯は隠者や一部の数奇者、即ち一般的にいう変わり者のためにあるのではなく、日常の人々が各々の生活を営みながらその間に余裕のできた時に楽しむもの、として茶の湯を現実の生活の場に戻し、しかも敬和静寂、出世間的な茶の世界に遊ぶ案内者として、平易を心懸けて数多くの茶に関する著述を試みたことである(その著書を挙げれば枚挙に暇がない故に略す)。なお、七事式の普及に尽力したことも以上の考えに沿ったものと解され、また稽古式の追加創制(花橘ー貴人付花月、雪月花ー多人数の花月)も々ラインにて考えられよう。

 ところで、宗達の目指した茶は如何なるものであったか。それはわからないまでも、彼の目指す姿勢そのものは明確である。

人々何を学ぶとも、古人を学ばずして古人を学ぶ処を目ざして学ぶべし。

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